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2 juillet 2012 1 02 /07 /juillet /2012 12:42

L'article publié au avril 2011 , nous avons eu " avis aux Artistes"

 

Monsieur  Y . Inokura nous a démandé de participer à peindre / colorer sur ces boites blanches pour passer nos messages aux victimes au Japon. ,nommé "BOX MESSAGE PROJECT " .

 

Quelques artistes du N.A.C. ont participé comme Tomoko FARREL , voici nous avons eu son rapport du voyage au Tohoku .

 

                                  MERCI à  TOUS !

 

 

 

-----            BOX MESSAGE PROJECT          ------------------

 

フランスから持ち帰った計29個のボックスは、僕が3月4日から12日にかけて実際に東北に持って行きました。場所は、岩手県宮古市の三つの仮設住宅と、大船渡市の商店街の祭り、そして陸前高田市のボランティアセンターです。それぞれの場所で多くの方々に見てもらうことができ、少しでもフランスからの思いを感じ取ってもらえたのではないかと思います。そしてそれと同時に、僕にとっても非常に有意義な経験となりました。
このレポートを通して、現在の被災地の状況を少しでもフランスの方々に伝えることができたらうれしいです。

 

I brought back a total of 29 boxes from France, which I personally took around the Tohoku region from the 4th to the 12th of March. I took them to three temporary housing complexes in Miyako City, Iwate Prefecture; the shopping district festival in Ofunato City; and the volunteer center in Rikuzentakata City. At each location, many people were able to see the boxes and messages; I hope that they managed to convey at least some of the feelings of solidarity sent by people in France. Certainly for me, it proved to be a very meaningful experience. I would be very happy if this report could give people in France even a small glimpse of what is happening in the areas affected by the earthquake.
                                                                                                                                          猪倉 雄飛 Yuhi Inokura

 

 

----------------          東北記 3月4日~12日 Tohoku journal 4th to the 12th of March    -----

 

3月4日(秋田より宮古市に電車で移動)

 

支援団体MADに連絡後、宮古市福祉支援センターに話を通してもらう。
宮古市に到着後、ボランティアの無料宿泊施設、川合キャンプへ。学校跡地を利用しており、寝場所は教室、食事は調理実習室を利用する。この時は30名ほどの方が宿泊しており中には半年以上の長期にわたって活動されている方もいる。下は18歳から上は60歳以上まで、幅広い年齢層の方が利用されていた。センターと直接連絡しボックスのことを説明、傾聴ボランティアとしてサロン活動に参加することになる。(他にも写真洗浄、瓦礫撤去、センターサポートスタッフなどがある)
3月5日 河南仮設住宅 march 5 temporary housing 1 in Miyako City
仮設住宅内に住んでいる二人が常駐して管理している(夫婦)。おそらく他の仮設住宅においてもその場の居住者が管理スタッフとして働いていることが多いようだ。午前10時から「エプロン男子の会」というボランティアグループがコーヒーを淹れに来てくれる予定のため、早くから人が集まりだす(計15名ほど)。この会は傾聴ボランティアとしてコーヒーやココアを片手に被災者と会話を楽しむという活動をされている。ただ、この人たちも被災者である。(元々イベント用として持っていた三つあるコーヒーメーカーのうち二つは津波で流されている)
着いてすぐにコタツを囲んでおばあちゃんたちと世間話をした。「宮崎から宮古までいくらかかった?旅全体でいくらかかる?」などというお金の質問をいくつか受けた。僕と同じように遠くから来る人もたくさんいると言われていた。
最初にBOXを見た常駐スタッフが「がんばれって言われてもがんばってるからねえ・・。」と言いながらもテーブルを用意してくれた。どくろの描いてあるものについては、「今は311が近いことで無神経な取材も多くピリピリしてる人が多いから・・。」と言われたので見せず。


・At the assembly hall, the manager of the temporary housing is holding a box. He looks at it carefully.

 

 

その後実際におばあちゃんたちに見てもらう。「言葉が読めん、読めんとダメや」と日本語のものだけ探して読む方もいた。絵も基本的には「読めん」ものだったようだが気に入った絵のときは「これはキレイ!」と言っていた。
「これはどう作ってる?何で描いてる?どう描いてる?」といった感じで絵の描き方、素材、またBOXそのものの作り方や材料を聞いてくる方が多いのには驚く。(特に二三名いた男性はそうだった)コーヒーボランティアの70歳くらいの男性は「俳句を貼れる」と一句描いていたのでひとつボックスを差しあげる。
「言葉は分からんけども気持ちは伝わってくる。ありがとう。この箱一つ頂いていい?」と同じくコーヒーボランティアのおばあちゃんが言ってくれた。この方は一つ一つを長い時間熱心に見ながら、涙ぐんで自分のことを話してくれた。家族は無事だったが家は津波で流されてしまったとのこと。ご自身も被災者として苦労がわかる分、ボランティアをして少しでも役に立とうと思ったという。行動することによって気持ちを整理しているのかもしれない。ほかの人にも熱心にボックスのことを紹介してくれた。
片付けの際、二三名のおばあちゃんたちがボックスを袋に入れるのを手伝ってくれた。
ボランティアは基本的に朝の9時から15時までと決まっている。その時は迎えが遅くなったため、そこの最年長であろうおばあちゃんとしばらく話をした。一人で居る自分の部屋よりはみんなと居るこの集会所のほうが居心地がよいのだろうなと思った。
・Setting a box up for display, in preparation for people who will be coming to see it. 

 

3月6日 高浜仮設住宅(海の見える高台) march 6 temporary housing 2 in Miyako City

一日待っていたが利用者なし。子供の絵や折り紙などがいっぱい飾られていたので、また川合キャンプで出会ったベテランボランティアの方が「あそこは芸術好きな人が多いわ」と言っていたので期待していたのだが。あとで聞いた話では、この仮設住宅では呼び込みなどをしてボランティアが来ているということを知らせなければ人は集まりにくいということ。無理に来てもらうのもどうかと、またどこまで行動していいのか分からなかったこともありそういうことはまったくしなかったのが裏目に出た。福祉センターのスタッフは「(その仮設住宅は)海が見える位置にあるから津波を思い出して精神的につらい人も多いのではないか」と言っていた。
午前中に自治会のおじさんが訪れて30分ほど世間話。「瓦礫ばかり見ているから絵を見るのもいいかもなぁ。でも・・・。」といって首を振っていた。最初にボックスを見たときは「なんだこれは?」と興味は持っていたが実際に手にとって見ることはなかった。現場にいる人たちは“心の支援”というものはあまり求めていない。反対に同じようなボランティアをやっているような人たちはとても興味を持って見てくれて、いろいろと話をすることも多かった。
そのおじさんからはサクラマスが美味いとの話を聞いた。しかしかなり値段が高くなかなか手が出ないとのこと。普通の鮭の二倍近くするようだ。しかし、「また来たい」と思えるような話で、聞いて良かったと思った。
・The exterior of the temporary housing that I visited. It is said that there are over 900 of these housing complexes in the whole of the Tohoku region.
帰る間際に来た福祉センターのお兄さんは「もしかしてこれBOXメッセージですか?おしゃれですねー。」といっていた。こちらから何も言っていないのに“ボックスメッセージ”という言葉が出てきたのには少し驚く。
集会所には多くの絵やメッセージが飾られていたので一つボックスを置いていく。「九州からこんな奴も来たんだな」と少しでも嬉しく感じてくれるとこちらも嬉しい。

・I did a drawing on location and left this box at the assembly hall of the temporary housing. Many other pictures are also displayed there.


3月7日 中里応急仮設住宅 march 7 temporary housing 3 in Miyako City


岩手で(もしくは宮古で)一番最初に出来た仮設住宅とのこと。ここも夫婦が責任者として運営している。おじさんのほうは無口だったがおばさんのほうはなにかと気を使ってくれた。
午前中は七、八人ほどのおばあちゃんが来て編み物をしていた。皆当たり前のように編み物道具を持参してきて会話しながらも常に手を動かしている。
ボックスを見て「一周年のキャンドルかと思った」、「(顔が映った写真を見て)これはいやだな、でもこれはいい」など正直な感想を頂く。年配の方は正直な意見を言ってくれるので聞いていて気持ちが良く感じる。一人非常に感心してくれるおばあちゃんが居て、ボックスのパーツ一セットを貰っていった。組み立て方を聞いていたので家で組み立てるのだろう。この方は一つ一つのボックスを良く見ていて、とても興味を持っていることが伝わってきた。このような人が一人でもいると非常に嬉しかったし、持ってきた甲斐があったなと思える。
・A group of elderly ladies in animated conversation with a box in their hands. Although there was hardly anyone who could read French or English, they all enjoyed looking at the pictures, and they asked me lots of questions about the materials used and how they were drawn. They kept saying "thank you" to me over and over.
このワークショップを主催している方はがん闘病中の被災者だった。地震当日、友人と買い物に出かけていたのだが、たまたま相手の都合で予定を早めて行動したために津波の被害を受けずに済んだという。その買い物していた場所は津波で大きな被害を受けた場所で、もし予定通りに買い物していたら津波に遭遇した可能性が高かったとのこと。この方も非常に親身に話してくれて、後日僕の作ったネックレスを宮崎まで送ってくれた。
ワークショップ終了後、午前中居なかった方にもボックスを見てもらう。「勉強不足で読めん、これからフランス語勉強せんな」などと言って大声で笑っていた。変わった表現をしているボックスを見るときには、不思議そうな顔をして隣の人に見せていたり。六面にびっしりと絵が描かれているものにはやはり目に留まるようで、じっと見入っている人もいた。
帰る前におばあちゃんたちと少し話をした。「広い駐車場で、家がぐるぐる回っていたんだ」「この地区で55人も死んだんだ。」「あなたたちはテレビで津波を見ただろうけど、私たちは目の前で見たからね。」このようなことを時折涙を浮かべながらゆっくりと話していたが、何も言う言葉がなかった。宮古市の震災当時の映像では、真っ黒な津波が街に流れ込んでいるが、その時港にあった重油タンカーが流されたのが原因らしい。「油臭かった」と口々に言っていた。話を聞いていてふと、「もう1年になるよな」と気付いた。このおばあちゃんたちはこの1年間ずっと同じように津波の話をして涙を流していたんだろうか。もしそうだとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
帰る間際にボックスを片付けているとおばあちゃんたちが手伝えるかと聞いてきた。その時はすでに作業がひと段落するところだったのでお断りをしたけど、このようにボランティアの僕に対して気を使ってくれるような場面が何度かあった。気を使わせてしまって悪いなとも感じたけど、そもそも遠くから来ているような人に対して、「わざわざ悪いね、お疲れ様だね」という遠慮の気持ちがかなりあるのだろうと思えた。
3月8日 大船渡夢商店街 march8 temporary shopping district in Ofunato City
前日に宮古市から釜石市までバスで二時間移動しそこで一泊、その後早朝のバスで再び二時間、大船渡市に入る。夜中に宮古から乗ったバスの中から見た大槌町の、突然たくさんの家の基礎が暗闇の中に浮かび上がる光景は忘れられない。元々は家々の明かりがあり真っ暗なはずではなかった場所である。家は津波で流されて基礎だけ残っている。
・The coastal view taken from a bus, at the half way point from Miyako City to Ofunato City. The concrete foundation of the building had been washed away. Most of the coastal area of the Tohoku region looks very similar to this.
商店街の祭りのことは事前にインターネットで調べて、毎月8のつく日に開催することは知っていたのだが、一度連絡をしても繋がらなかったため結局飛び入り参加の形となった。大船渡の隣駅に着いた後、そこから少し迷いながら大船渡駅近くのプレファブの商店街へ。街を歩きながら、震災がなければこの街に来ることなんておそらく一生なかっただろうなと考えた。「こんな機会がなければ・・」とは色んなとこで聞いた言葉だ。広い被災地によって多くの出会い、交流が生まれたのは今回の震災の良い面と言える。
・The entrance of a temporary shopping district in Ofunato City. This is a commercial center for people who lost their stores in the tsunami.
商店街に着いてみると、祭りということでNHKテレビの生中継が入っていて多くの人がいた。とにかく疲れていたのと寒かったのとで、さっそく入り口で無料で提供されていたカニ汁とわかめのしゃぶしゃぶを食べる。両方ともとても美味しく、それぞれおかわりしたように思う。ベンチで座りながら食べていると、同じように隣でカニ汁を食べていたおばちゃんから「旅人か?」と尋ねられた。大きなキャリーケースとパンパンのバックパックを傍らに置いていたからだ。「宮崎から来て、フランスの方々からのメッセージを預かっている。ここで見せることはできませんか?」と聞いてみると、快く商店街組合の理事長さんを紹介してくれた。
テレビの取材が終わり一段落した理事長さんが、商店街の奥のベンチが三つ並んでいるところに連れて行ってくれ、「ここを自由に使っていい」とのこと。ベンチの一つをテーブルとしてボックスを並べ、商店街本部で白い紙を貰ってきて紹介文を描きベンチの背もたれ部分に張った。並べ終えた後、改めて会場を良く見てみる。
この字型に並行してならんだプレハブの店舗の間は木のデッキになっていて、その部分に祭り用のテントの出店が入っている。その出店と同じような並びでボックスを並べるということになる。
・Preparing chairs within the shopping district to display a box at the festival. Some people wanted to display the box at their homes, so they took some spare ones back with them saying they would serve as drawing models.
隣で煮干し、干物を売っていたおばちゃん(志田さん)に挨拶をしたあと人が来るのを待つ。みんな興味は持っている様子だったがなかなか踏み込んで見に来るということはしにくいようだ。
少しすると志田さんが自分のお店に寄ったお客さんをこちらまで案内するようになった。最初に来た人が不死鳥のボックスを手に取り、いきなり「これ下さい」と言ったのには驚いたが、これはうれしかった。家に飾るつもりなのだろうかわからないけど、欲しいと思ってくれたのは嬉しいことだ。また、同じボックスを見て「美空ひばりになった気分!」とポーズを決めるおばあちゃんもいて、皆が笑っていた。志田さんが「どうぞ触ってください、ご利益がありますよ、パワーが出ますよ!」と皆さんに呼びかけはじめて、おばちゃんたちが次々と見て触っていく。「ごくろうさまです」といって深々と頭をさげるおばちゃんもいた。おばちゃんたちのパワーに圧倒されてしまってこちらも笑うことしかできなかったが、被災地でも女性のエネルギーのすごさは変わらないと思う。
・The inside of the shopping district, where there are many different types of stores that are essential to everyday life, from fishmongers to barbers. A valuable forum for communication within a city that has suffered great damage.
その後少しして、商店街内で床屋さんを営むおばあちゃんが「いろいろつかえそうだからねぇ」と言って予備のボックスを一つ貰っていった。その少しあと、今度は床屋さんのお客さんが走ってきて、「私も欲しい」とのこと。なんでも最近デッサンを始めたようでそのモデルにしたいという。「こんな箱普通は手に入らないし丁度良かった!」と言う。「なるほど、こういう使い方もあるのだな」と感心した。なにが起こるかわからない。
周りでお店を出していた人たちも、ここで何をやっているのかと気になっていたようで時々様子を見に来て「あとでまた見ます」と言って仕事に戻っていった。またNHKの記者さんがいろいろと質問していった。もしかしたら明日取材させてもらうかもしれないとのこと。(結局取材はなかった)その時に、大船渡の被害は地形が平たんではないため津波の被害が比較的少なかったこと、それに比べて陸前高田は海沿いの平たんな地形に街が集中していたために大きな被害が出た、ということを聞く。また311も間近で、ただでさえ被害を受けて数も限られている沿岸部の宿泊先は、報道関係者と工事関係者が一杯で空きがなかなか見つからないという話も。ここ数日でかなりの数の報道関係者が集まっていて至る所で取材をしている。
志田さんにお昼ご飯を御馳走になったあと、雨が降り始めたことと、祭りがお昼までということで出店を片付け始める人が増えるとともにお客さんの数は減ってきた。志田さんのご主人が車で来たので販売品の積み込みを手伝う。飛び込みでこの街に来たために宿を探しているがなかなか見つからないという話をしていたら「今日の宿見つからんかったら連絡して。」と連絡先を交換させてもらい、二人は帰って行った。その別れた少し後に電話があり、「今陸前高田のボランティアハウスに居るのだけど、部屋が空いてるぞ」と教えてくれた。わざわざ直接行って部屋の確認をとってくれたのだ!ありがとうございますとお礼を言うと、またここまで迎えに来てくれるという。電車も止まっている街なのでこれには本当に助かった。
・Views of Ofunato City. The red building that can be seen straight at the back designates the furthest line reached by the tsunami. All the buildings before it were washed away creating an empty plot of land.
迎えに来るまで少し時間が空いたので商店街周辺の港を歩いてみることにした。街のある大通りの山側のほうは多少壊れている部分はあるものの普通の街並みだが、海側のほうはコンクリートの大きな建物以外はすべて流されていた。この道路がこの場所での津波の到達ラインとなったのだろう。草木もなく壊れた建物の上や瓦礫の山で何台ものショベルカーが作業していて、普段まず見ることがないような異様な光景だ。一般の車はほとんど通らず、工事用の大型トラックが砂埃をあげて行きかっている。海のすぐそばまで行こうと水溜りや金属片の落ちている泥で汚れた道を歩いていく。散歩しているおじいちゃんと工事関係者が遠くに数人いるだけで、ひと気はほとんどない。工事の音だけが響いていた。港の真ん中辺りに比較的大型の錆びた貨物船が1隻浮かんでいた。数百メートル離れたところにはもう1隻。明らかに動力はなさそうで一年前からずっとそこにあるのだと思う。津波の後、港は漁をできる状態とも言えなさそうで、手が回らなくて放置されているのだろう。生活観のないさびしい風景だった。
帰り道、水のたくさん流れる小さな用水路を覗いたら、ものすごくたくさんの魚がいた。おそらく海とつながっている排水部分が壊れて魚が自由に入り込めるようになってしまったのではないか。自然はしっかりと活動しているんだと思い生き物の強さを感じてすごくうれしい光景だった。
電車が通らなくなって雑草が生い茂ってしまった線路もあった。周辺の建物はなくなり、以前ここに電車が通っていたとは想像できなかった。なお岩手県の中部にある宮古市から宮城県の中部にある女川町あたりまでの沿岸部の電車はほとんど復旧していない状況である。
その後志田さんのご主人が迎えに来てくれて陸前高田まで出発する。道中でいろいろな話ができた。去年の夏にも北九州からボランティアに来た40歳くらいのヒッチハイカーを乗せたことがあるようで、「九州の人間を乗せることが多いな」と笑っていた。ちなみにその人は奥さんから「あなたは医療の仕事をしてるんだからできることもあるでしょう。さっさと行きなさい!」と言われてきたそうだ。
・A signboard by the side of the road, wishing for good fortune and a speedy recovery. There were many of these around the city.
震災時の話を聞きながら約30分ほどの運転で高田に着いたが、その光景は今まで見たどの町よりも凄まじかった。少し遠回りしてくれて以前のメイン通りである海沿いの道を通ってくれたが、説明を受けなければとても街の中心部だったとは思えない。後から作られたであろうアスファルトの道路と電柱こそあるものの他は大きな水たまりと土の山と瓦礫が一面を覆っている。何度もニュースや新聞で壊滅という言葉を聞いてきたが、これこそがそうだと思った。
このあと高田の人たちから「全部もっていかれたんだ」「すべてやられたんだ」という言葉を何度も聞くことになるが、ほんとにそうとしか表現できないと思う。
・The view of Rikuzentakata City from a breakwater. Nearly 1,800 people died in this city alone. Everything in the center of the city disappeared due to the tsunami.
志田さんは山の方に住んでいたから大丈夫だったとのこと。しかし海産物を扱う仕事だから震災後しばらくは仕事ができなかっただろう。おそらく相当苦労されて今商売ができるところまで持っていったのだと思う。そんな状態にも関わらず笑顔で、自分の故郷である無くなってしまった街のことを丁寧に説明してくれた。
街のメイン通りを回った後ヤルキキャンプというボランティアハウスに着いた。「小さい建物ですごく狭い部屋だけど大丈夫?」と何回か言われてはいたが、見たところ普通の一軒家で思ったよりも小さくてびっくりした。中から黒いつなぎの女性が出てきて挨拶をしたのち、志田さんは干物をその方に渡して帰って行った。
その女性は田村さんといい、とても明るい人で最初に笑顔を見て「優しそうな人で良かった」と思ったのを覚えている。建物の中にあげてもらい簡単な説明を受ける。驚いたことに、そこのボランティアハウスの飛び込み客第一号とのこと。その建物はボランティア施設という感じではなかったが、これをボランティアの素人だけで建てたというのだからすごい。「負けんな、ヤルキキャンプ」という本も後から出ていて、そこにいかに苦労して建てられたかが載っている。
田村さんと今度中学三年生になる雅ちゃんの二人でこの家で生活をしながらもボランティアを受け入れているようだ。元々は陸前高田市から100キロメートルほど離れた盛岡市に住んでおり電気工事士として仕事をしていたようだ。震災後津波の被災地まで毎週末ボランティアに来ていて、その中でヤルキハウス建設に関わり、誰かが住んで管理しなければならないということになり陸前高田に移住することになった。もちろん中学生の雅ちゃんは転校することになり、盛岡での仕事も辞めて来ている。多くの人の反対にもあったようだがそれらを押し切り覚悟して引っ越してきている。毎日つなぎを着て黙々と瓦礫撤去などの肉体労働を含む復興のための活動をしている。
陸前高田でも宮古での活動と同じように仮設住宅の集会所で傾聴ボランティアの一環として活動できないかと考えて、ボックスのことを説明したら「それだったら高田のボランティアセンターに置いたらいいのではないか。」という提案を受けた。平日でも一日何十人、土日だと軽く百人を超すボランティアの人が全国から集まるということで多くの人に見てもらえる場所だということ。また、集会所での心の支援も必要ではあるがそれ以前に瓦礫撤去などまだ手が足りない具体的な作業がたくさんあるので、男手はそちらに回ったほうがよいという状況だった。その後実際にセンターに連れて行ってもらい田村さんが話をつけてくれて、明日から置かせてもらう承諾をもらった。
センターに行く途中で通称本部長さんと呼ばれている高田の町の復興を指導されている70歳くらいになる方と合流した。ものすごい岩手弁で最初はほとんどなにも聞き取れなかったが、とにかく猛烈なエネルギーを持っていることはわかる。本部長さんの自宅は元々川の近くにあり、川を逆流してきた津波で持っていた3隻の船も含めて自宅は流されてしまった。もともとそこの土地の大きな地主さんだったようで、行政相手に土地の整備の際の説明、国に対しての予算の請求も瓦礫拾いもされている。この後何度も会うことになり瓦礫撤去の指導を受けたが、全力で復興に向けて行動をされていて尊敬できる素晴らしい人だった。


3月9日 陸前高田 ボランティアセンター、瓦礫拾い


march 9 volunteer center in Rikuzentakata City
朝八時過ぎにセンターに向かう。途中で本部長さんを乗せ、川沿いの道を山のほうに向かって車で走っていく。津波はこの川を数キロにわたって逆流しながら近くの家々を流した。現在瓦礫は撤去されてただの広い河原になっているが、ほんの数週間前までは瓦礫の山がそのまま残っており大変な状況だったようだ。一年近く経ってこの作業状況というのは果たして早いのか遅いのか。ただ言える事は、現地の人は本当に一生懸命やっているということ。かなりの内陸部であり、もし自分が当時ここに居たら、絶対に津波はここまで来ないと考えただろう。
・A box that we placed in front of the volunteer center at Rikuzentakata City. A person looks at the box just before going to help as a volunteer.
周辺になにもないような谷間にセンターはあった。横には大きな駐車場があり、かなり多くのボランティアを受け入れることができる。それだけ人手が必要なほど街の被害が大きかったということだ。スタッフさんに長机を用意してもらい、建物横にあるビニールテントの外に置かしてもらう。目の前が多くの人が集まっている広場となっているためとても目立つ場所だ。皆が長靴とツナギなど汚れ作業用の格好をしており少し場違いな印象もあったが、ボランティアの人たちのモチベーションを保つ意味でも、良い場所に置かしてもらったと思う。ボックスのことをセンターの人に任せて、瓦礫拾いのボランティアに参加した。
・Mountains of rubble all around the city. There are so many of them that quite a few still remain. These rubbles are suspected of being contaminated with radiation, so their disposal has turned into a big issue across the whole of Japan.
今日の作業は、海沿いの一区画での瓦礫拾いだった。大きな瓦礫は重機で取り除かれているが、取りきれなかった小さなものを人間が一つ一つ拾っていく。携帯電話や鉛筆、漁の道具の残骸、コンクリート片など様々なものが落ちている。このときの参加者は20人ほどだったが、少し離れたところで違う団体が側溝の泥かきをしていた。海沿いは小高い場所を除きほぼすべてが同じような被害状況だ。見渡せる範囲は、土がむき出しになっているか瓦礫が残っているかという状況。ふと、これらすべての場所で今やっている作業と同じように一つ一つ瓦礫を拾っていったのだと、またこれから拾っていくのだと分かり、どれだけ多くの人がボランティアに関わっているのかが実感できた。そしてこれが東北全体の沿岸部に及んでいる。途方もない作業のように思えた。「少しずつでも瓦礫を拾っていくしかない。とにかく目の前の物を片付けよう」そう思いながら黙々と作業を進める。一緒に作業していた本部長さんが「おれの船の破片があるかもしれねぇ」と言っていたのを覚えている。
・The destroyed breakwaters that should have protected the city. Although it has been a year since the earthquake disaster, the restoration work has still not progressed.
夜は近くの仮設住宅に住んでいる大工のたずみさんが震災当時の映像を納めたDVDを持ってきてくれた。地域ごとに映像がまとめてあり、水かさが次第に増えていき街が流されていく様子、屋根の上でそれを見つめている人々が映っていた。たずみさんの家が流される直前の映像もあり、田村さんと三人で夜中にお酒を飲みながらそれを見ていた。ほかにも二人にとっての馴染みのある街並み、風景がいくつか映っていたようで割と明るい調子でいろいろと思い出を話していた。少なからず知り合いを亡くしているだろうし、自分にとって思い出の場所が目の前で壊れていった現実を今は正面から受け止めているというか。そういう人に会うたびになんでこんなに強く明るく生活できるのか本当に不思議に思っていた。一方では海さえ見たくない、見れないという人も多くいるという。もし僕が被災していたら、この人たちのように活動できていただろうか。もし家族が一人でも犠牲になっていたら。このようなことはよく考えた。もし東北ではなく僕の故郷の九州の太平洋側で同じことが起きていたら・・。同じように全国からボランティアが来てくれただろうか、街の再建、復興ということに対してどう考えていただろうか。東北あたりの遠いところから人が来たらどう感じるだろうか。できる限り自分のこととして考えるのが、支援する自分の心持ちを決めるもっとも良い方法じゃないかと思えた。


3月10日 ボランティアセンター、田んぼのゴミ拾い
march 10 volunteer center
at Rikuzentakata City

 

朝、再びボックスを設置しに行く。この日は雨だったのでテント内に置かせてもらう。土曜日なので昨日よりも多くの人が集まっている。今日は外国人の方も何名か来ていた。おじさんがボックスをひとつ持ってまじまじと見つめていた。この日もボックスをセンターの人に任せて他のボランティアに行く。
・It was raining on this day, so this box was placed inside the volunteer center. Someone actually holds it in their hands. Inside the center, there are also other messages, origami, etc. sent from all over Japan which fill the display completely.
今日はヤルキハウスの横の田んぼのごみ拾いをする。小雨の振る中、長靴をはいてヘドロの中での作業。あまり被害の大きくない個人の敷地だとほぼまったくの手付かずになっていることが多いように思う。作業した場所はちょうど津波の到達ライン辺りで、建物の被害はそんなになかったがごみ等は流れてきたといった状況。6人ほどで作業をして三時間くらいで終わる。田んぼのそばに住んでいる家族が、家の周囲がきれいになって驚いた様子を遠目から見ていてうれしくなった。ちょっとしたことだけども、自分の身近なところが少しでもきれいになったらうれしいだろうなと思いながら。
夕方、ボックスを回収しにセンターに連れて行ってもらう。スタッフにお礼をいうと「また何かありましたら気軽に提案してください」と言ってくれる。そしてボックスを見に行くと、とてもきれいに並べられていた。誰かがならべたのだろう、確かに直方体をみると整えたくなるのかもしれないな、と思う。少しでも多くの人々の目に留まったことを信じて。

 
3月11日 被災地見学 march 11 Rikuzentakata City


この日は震災からちょうど一年ということでボランティアセンターは休みだ。他の地域ではどうか分からないがここ陸前高田に関しては、この日は静かに過ごそうということ。やはりこの日までに行方不明者を一人でも見つけてあげようと警察の方もここ数日がんばって捜索されていたようだ。
今日は僕たちも作業をせず、田村さんの心遣いでさまざまな被災地にまで車で連れて行ってもらうことになった。陸前高田の街もいろいろとドライブして、いろいろと当時の話を聞かせてもらった。
・This place was originally a pine forest with 70,000 trees, with an esplanade running through it. But a tsunami of more than 10 meters in height came here, turning the forest into sea, and leaving only one pine tree standing.
まず、海岸沿いの浸水して海となってしまった場所に数本大きな照明装置が立っている。ここは震災前に完成して引渡しを待っていた新しい野球場だったとのこと。一度も使われないまま照明器具だけを残して流されてしまった。あと、ちょうど街の中心部辺りにあった体育館。六角形の特徴的な形をしている。海からの距離も少しあり建物自体少し高く造られていることから、地震当初は100人以上の方がここに逃げ込んだ。しかし結局ここにまで津波は流れ込み、ほとんどの方が流されてしまったようだ。屋上の鉄塔にしがみ付いていた三人ほどだけが助かった。しかもその助かった人も、一人は足の切断、一人は精神障害など大きな被害があったようだ。その人たちは上から流されていく人たちを見ていて「人間洗濯機だった」という言葉を言っていたという。もうひとつ、現地の情報誌で読んだ話で一番つらかったものがある。それは、地震が起きてから津波が来るまでの間、多くの人が建物から出たり逃げ惑ったりして屋外に出てきていたときに、松林のほうから猛スピードで山のほうに逃げる車があったという。そしてそれは道路に出ている人を次々とはねながら逃げていったという。おそらく、その車を運転しているのも普通の人であり、そのような精神状態になるような状況だったということなのだろう。本当に悲しくなる話だった。
午後2時46分、サイレンが鳴り一緒にいた人たちと黙祷をする。黙祷が終わった後、普段は非常に明るい岩手の人たちがみな泣いていたのが印象に残っている。
・Light of Hope sent by Kobe City where the Kobe Earthquake took place 17 years ago. The light illuminated the city of Kobe after its earthquake, and it now lights up the Tohoku region in the same way. It conveys their feeling of solidarity and a wish for the region’s recovery.


3月12日 ヤルキハウス看板制作 march 12 Rikuzentakata City


陸前高田最終日。本当は二日ほどでこの街を去る予定だったのだが、ここの人たちの優しさに甘えて、また人手の足りなさから五日間の滞在となった。今日は、ボランティア受け入れを本格的に始めるために必要だったヤルキハウスの看板制作をする。長さ二メートル、幅三十センチほどの杉板に墨汁で字を描いていった。作業中聞いていたラジオで陸前高田の生中継が入っており、一年が経過しても復興にはまだまだ遠いという話をしていた。それに対して東京のMCが「でも岩手は他の県に比べてずっと復興が進んでるでしょ?」と軽い調子で話していたのに非常に腹が立った。そしてその時に、心ないメディアに対して被災者の人たちがどれだけ怒っているのかが少しだけわかったような気がした。隣に居た田村さんは無言で作業を続けていた。宮古市の仮設住宅でも、モラルのない記者がインタビューをしているのに被災者がピリピリしているといった話は聞いた。
作業しながら田村さんといろいろな話をしたが、そのなかで「このボランティア受け入れハウスを運営していて、その活動を続けるために多くの人からいろんな支援をしてもらっている。自分が支援しているのか支援されているのかわからなくなることがある」と言っていた。元々は支援をする側だったのが、陸前高田に住むことにより支援を受ける側にもなって、そのことに迷いも感じるという。
・A parent and child, who looked after us at our accommodation in Rikuzentakata City, wished to draw a picture each on the box.
夜、食事を食べた後、宮古市の仮設住宅にその場で絵を描いたボックスを一つ置いていったという話をしたら、ぜひともこのハウスにも置いていってほしいとのことで、田村さんと雅ちゃんとボックスに絵を描くことになった。深夜一時くらいまで中学生の雅ちゃんが描いてくれるのを横目で見ていて、とてもうれしくなる。結局一人一個ずつ描いて、もうひとつこれから来る人たちの寄せ書き用ということで置いていった。
・A junior high school girl finished doing her drawings on the box in about two hours. Each drawing conveys her feelings of affection for the disaster areas.
このボックスはフランスから東北へというのが大きな方向性ではあるけども、それだけではなくボランティアからボランティアへ、という方向でメッセージがあっても面白い。六面あるのでそれだけいろんな方向に広がっていくと嬉しい。
・Everyone finished one box each, including myself. I left these ones at our accommodation. I also left an extra box so the new volunteers that would arrive later could use it as a message box.
次の日の朝、田村さんはお弁当とたくさんのジュース、お菓子などをいっぱい用意して僕を気仙沼駅まで車で送ってくれた。
帰りに寄った松島市で、駅までの道がわからず地元のおばあちゃんに案内してもらった。歩きながら色々と話をしてくれた。おじいちゃんに先立たれたこと、その時のおじいちゃんの「好きな場所で好きに暮らしてくれ」という遺言を受け、数年前にたまたま高台に引っ越していて津波の被害を逃れられたこと。そして別れ際に、「とにかく人にやさしくすることよ、そうしたら自分もやさしくしてもらえるよ」と言っていた。そういうことを言われたから思うわけではないけども、東北で出会った人たちには本当にやさしくしてもらえたなと思う。良い出会いに恵まれた東北旅行だった。
・An ice sculpture made in Rikuzentakata City in time for March 11. There are also 5 or 6 other sculptures displayed next to it.

 

 

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